<バンダネイア港>
<グヌン・アピ山>
<ナッソー砦>
<コラコラ舟>
<ベルジカ砦>
<ベルジカ砦、斬首台>
<オランダ教会>
<日本人侍による斬首光景;博物館にて>
夜半に時間調整のため、セールをすべておろし、風圧だけで船をバンダ島に流すように進める。
6時ころ、世も白み始めたのでバンダ島の泊地に向け侵入してゆく。昨日すでに到着しているヨット数艘が舫をとっている。同時に今朝入港してきたヨットで湾内は混雑している。何とか定位置にヨットを舫える。向かい側のグヌン・アピ島は休火山で我々に多いかぶるようにそそり立っている。
簡単な情報を持って町に出かける。町には植民地時代を思わせる建物や、路肩にはさびた大砲が転がっており、丘の上には砦が見受けられる。ここは16世紀~17世紀ころヨーロッパ列強にとって大変重要な諸島であり、その痕跡がおおく残っているためだ。
ナッソー砦、ベルジカ砦、オランダ教会、博物館を見学する。途中全長20メートルもあろうかと思われる細長いフネを見つける。コラコラ(Kora-Kora)というフネで、年二回これを使ったレースが行われるそうだ。それにしてもフィジーで見た船と特徴が良く似ており、その起源が同じように見受けられる。
昼食をゲスト・ハウス・ムティアラでとり、夕食はヨットを止めてあるホテル・マウラナで取る。ツナの刺身など出され、舌鼓を打つ。話題のナツメグをレストランで見せてもらう。ゴルフ・ボールくらいの大きさで、割ると中から種が出てくる。今回は若いらしく白っぽい色をしていたが、熟れてくると赤くなるそうだ。これが香辛料として使われるナツメグである。皮脂のほうは食材として使われている。ちなみに生の皮脂をかじってみたが大変渋いものである。
<バンダ諸島の歴史とサムライ>
バンダ諸島と中心としたマルク諸島は別名、香料諸島(スパイス・アイランズ)と呼ばれ、ナツメグや丁子を中心とした香辛料の一大生産地として古くから知られていた。16世紀ころまではマツメグや丁子はインド人やアラブ人の手でインドまで運ばれ、インドの市場を通してアラブ人が中東まで運び、中東の市場を通してベネチア人が香辛料を独占していた。新興のポルトガルやスペインはこの商業ルートを破壊し、利益を上げるため、新航路の開発に躍起になっていた。結果的にはヴァスコ・ダ・ガマがインドへの新航路を開拓し、コロンブスが1492年に新大陸を発見する大きな原動力になった。
ポルトガルはさらにナツメグや丁子の産地直産ルートを開拓すべくその後も東進を続け、1512年にはアントニオ・デ・アブル(Antonio de Abreu)がバンダ諸島を”発見”している。1527年にはナッソー砦を築き、貿易の安定を考えていた。
後発のオランダはその利権を横取りするためナッソー砦を落とし、ベルジカ砦を築いている。オランダは香料の独占を完成するため、産地の領有と言う行動を開始した。バタビア(ジャカルタ)の総領事となったJan Pieter Zoom Coenが1621年に26艘の船に2000人の兵隊を乗せ、バンダ諸島の侵略を開始する。ちなみにこの派兵には120名の日本人サムライ傭兵(80~100人とも)が参加している。戦いはオランダの勝利となり、15,000人いたバンダ人の半数以上は殺されるか、ジャワに追放された。最後は8人のThe Orang Kaya(Nobleman)およびその支持者36名が丘の上で斬首されている。このとき直接手を下したのが日本人傭兵となっている。その場所にはMonument Perigi Rante(The Killing Field of year 1621)という記念碑が建っている。
徳川初期、豊臣方サムライやキリスタン・サムライが南海に散っていったとは伝えられているがその後の消息はほとんど伝わっていない。
400年後の今日、ここへ来て突然かつての”サムライ”が飛び出してきたようで、斬首という残忍な登場の仕方であるが、戦国時代末期の「サムライ」の消息が現在に伝えられたようで、なんだか変な安心感に浸っている。
オランダの東インド会社はバンダ諸島を領有すると、中心の3島以外の島のナツメグを切り倒し、価格の安定と上昇を図った。しかし、バンダ諸島で唯一ラン(Rhan)島が英国の領有であり、更なる利益を求めて、かつてオランダの領有地マンハッタン(ニューヨーク)とラン島を交換してナツメグの独占が完了する。その結果、ナツメグはヨーロッパでは30倍にも跳ね上がり、「ナツメグ1gは金1gと等価」といわれるようになる。紀元前後、「胡椒1gは金1gと等価」といわれるのが思い出される。この利益でアムステルダムやロッテルダムが大いに栄えることになる。