<トロア・ジレの教会>
<トロアジレ:鱗瓦が印象的>
<ジョセフィーヌの生家:台所>
<St.Pierreの石牢跡>
<St・Pierreの夕焼け>
午前中に上陸し、ジョセフィーヌ(ナポレオンの妻)の生家を見学に行く。
途中、鱗状の瓦を屋根に敷き詰めたかわいい家が散見された。このあたりで鱗瓦を製造しており、昨日立ち寄ったグランド・アンス・ダレの少し南のレザンス・ダレ(漁港)もこのような家が多くみられ風情を醸し出しているそうだ
ジョセフィーヌの生家はゴルフ場の前を少し山側に入ったところにあり、現在はLa Pagerie Museumになっている。
ジョセフィーヌの実家は元々は裕福だったらしく、200エーカーの農場と150人の奴隷を擁していたようだ。
したがって元の邸宅は立派っであったが、ジョセフィーヌ三歳のときハリケーンで全壊してしまう。残念ながら 父親はギャンブル好きで女たらし(Womanizer)であったため没落してゆき、邸宅の再建の手立てもなく、彼らは工場の一部で生活していた。
ジョセフィーヌ16歳のとき、父が決めた相手と結婚するためフランスに渡る。最初の夫はフランス革命で処刑される。
彼女は愛人である総裁政府の要人(ポール・バラス)に助けられ死なずに済んだようだ。
そのうち、彼女に飽きてきたポール・バラスは彼女と別れたく思っていた矢先、ナポレオンが現れて結婚することになる。
ジョセフィーヌ33歳、ナポレオン27歳であったが、偽って両人とも28歳と婚姻届したようだ。
余談だが、当時、女性を捨てる時にはそれなりのことをするのがフランス男子であるとの風潮があった。
ポール・バラスもこれに従いそれなりの男性をあてがう必要があった。そこにナポレオンが現れ、政府の重鎮の愛人をもらいうける形になった。ナポレオンもこれを旨く使って政界で力をつけていったとも言える。
驚くことに、小泉八雲がしばらく此処に滞在したそうだ。彼はギリシャのラフカダ島の生まれで、両親の離婚後、父方の大叔母にアイルランドで育てられる。19歳のとき渡米し、新聞記者になる。ルイジアナのクレオールに興味を持ち、1885年にはクレオールの諺辞典「ゴンボ・ゼーブ」およびクレオール料理のレシピ集「クレオールの料理」を発表する。さらには1887年から20カ月ほどマルティニクに滞在し、クレオールのフィールド・ワークを実施し、1889年に「仏領西インドの二年間」と言う本を発表する。その年に、来日し、我々のよく知るところとなる。
船に帰り、12時半にに錨をあげて、St.Pierreに向かう。今日も島影を走り、風もよく6ノットで快調に進む。
15時頃、St.Pierreのすぐ手前のCarbet Beachを通過する。ここは、コロンブスが4回目の航海時、1502年6月15日、此処に立ち寄ったとされている。
16時、St.Pierreに錨を入れる。北西にPelee山がそびえたっている。この山は火山で、1902年5月8日に大噴火を起こし、当時の首都で「カリブのパリ」と言われたSt。Pierreを完全に破壊した。
住民30,000人(死者29,933人)が全滅し、男性二人のみが助かったと言われている。その一人は靴修理屋で地下室におり、もう一人は殺人犯で石牢に入れられていたため助かったという有名な話がある。
上陸し、町をぶらつき、石牢にたどり着く。小さな石牢である。谷筋の高いところに建てられていて、運がよければ確かに助かるかもしれない。この町はその後再建されたが、首都は南のFort de Franceに移されて今日に至る。
もうひとつ、この町にはタヒチにゆく前にゴーギャンがしばらく滞在したそうだ。1887年友人ラヴェルと6月に此処へ来ており、将来の新境地を開拓するヒントとなる自然とであったようだ。それにしても、ゴーギャンと小泉八雲が同じ時期にいたとは歴史とは面白いものである。