<ロンダの闘牛場>
<ヌエボ橋>
<闘牛場内部>
<モーロ王の家>
<フィリペ5世のアーチ>
<セテニル>
<グラサレマ>
<サアラ・デ・ラ・シェラ>
セビージャ(セビリア)の南東約100KMに断崖絶壁の村、ロンダがあり、車で出かける。
<ロンダの歴史>
アンダルシアは「バンドレロ(山賊)、山の粋な女たち、そして闘牛士」が強くイメージされる土地柄で、ここロンダはその典型的な村である。
ロンダは山中にあるが昔から地理的に重要で人々が村を作っていたようだ。イスラム教徒支配の初期にはクーラ(県程度の行政区)の首都になったおり、タークルンナーとよばれていた。
レコンキスタでは1485年カトリック王フェルナンドが近代兵器の大砲でやっと攻め落としたと言われる。レコンキスタ完了(1492年)の7年前の出来事である。カスティーラのイザベラ女王もここを訪れたという。
13C~14Cには町は東西と南に発展していく。18C(1793年)に新旧市街をつなぐ有名なプエンテ・ヌエボ(ヌエボ橋)が完成する。この橋から下をのぞくと本当に目がくらむようである。
よくも作ったものだ。実際、着工が1751年であるから約40年かかっていることになる。プエンテ・ヌエボが見えるレストランで昼食をいただく。
20世紀に入りロマン主義の時代、外国人旅行者により再発見された。「ユリシーズ」のジェームス・ジョイス、詩人リルケ等が訪れている。
近年では、ヘミングウエイやオーソン・ウエルズ(彼の名前を冠した道があった)やホンの最近では、アメリカ大統領夫人オバマが来ている。
<闘牛に関して>
午後は、ロンダが発祥といわれる闘牛場を見て回る。
そもそも、闘牛はレコンキスタ以降発達したものである。レコンキスタ後、まだまだ残留イスラム教徒がおり、時折反乱をい起こしていた。
これに対応するため、ここに、王立騎兵学校が設立され、そこで騎士たちが牛を相手に訓練していたことが起源といわれる。
治世が安定してくると、訓練がゲームとなり、大衆の娯楽となっていった。19世紀に入ると有名なペドロ・ロメロが登場する。
彼は闘牛の仕方を大きく変更する。それまではピカドール(槍方)、バンデリーリョ(銛旗士)、マタドールはすべて馬上にいたようだ。また、当然ながら、グランドのあちこちで牛との対決が行なわれていた。
これをマタドールのペドロは地上に立ち、新しく開発したムレータをひるがえして牛と対決する方法を編み出した。
彼の人気は絶大で、王立騎兵学校を動かしてスペインで初めての闘牛場を作らせたと言われる。また、彼は「闘牛学校」をも設立した。
これにより闘牛は社会的にも認められるようになった。ペドロ生誕200年(1954年)を記念して、古いやり方の闘牛(着衣も当時のもの)が再開された。
これは現在もここロンダで9月に開催され、「ゴヤ風闘牛」と呼ばれている。
闘牛場の中に入るとグランドは円形、観客席は二階建てで、136本の円柱で支えられている。闘牛士が逃げ込む狭い遮蔽板の中に入ると、牛がいなくても緊張感が漂う。
<白い村>
アンダルシアには30近い「白い村」があるという。以前にも、アルプフラ地方のラウハル、トレベレス(スペイン最高峰の村)、マラガ北方のミハスを見て回ったが、確かに、山の斜面にへばりつくような白い街である。
今回は、ロンダ近郊の「白い村」;セテニル、グラサレマ、サアラ・デ・ラ・シェラを見て回る。
大概の「白い村」はレコンキスタ以降、残留イスラム(キリスト教に改宗)が逃げ込み生活を始めたところだそうだ。
1)最初は、セテニル(Setenil)にゆく。解説書によると、Seteとはスペイン後で「7」を意味し、Nilは「無」を意味するそうだ。
由来は、レコンキスタ当時キリスト教徒の軍隊が7回攻めたが落ちなかったことだそうだ。最後にフィリペ王がここを陥落させ(1484年)、後期ウマイヤ朝終焉であるグラナダ陥落の引き金になったそうだ。
この村の正式名は「セテニル・デ・ラス・デボガスといわれている。デボガスとはワインの酒蔵を意味しており、ローマ時代からワインの産地であったようだ。
確認できなかったが、ここでイザベラ女王が早産のため息子を死なしてしまったようで、この王子(セバスチャン)がこの村の守護神になっているようだ。
村は深い谷を跨いで出来上がっているが、谷底近くには川で自然に刻まれたくぼみがあり、これを庇代わりに利用して多くの家が並んでおり、興味深いものとなる。
2)次がグラサレマだが、時間の都合で、車で村内を通過したのみである。
3)最後がサアラでこれまた、崖にへばりついた白い村で、村の最上部までゆくのに大変な思いをする。眼前にはダム湖が広がっている。