09.06.17 AKKO と ナザレ
アッコ北方と当方のアッコとナザレに行く
AKKO(アッコ、アッカ)
ハイファの北にある港町。青銅器時代から人間が住み着いていたようだが、1104年第一次十字軍のボードゥアン一世により占拠され以降パレスチナの中心都市となる。香料の道の四つのうちの一つのルート、アッコン通商路の集積地として香料を中心としてオリエント物産が取り扱われ繁栄する。1187年にはサラディンに占拠されるが第三次十字軍により1191年に再度占拠され1192年イスラエル王国の首都として栄える。しかしながら、1291年にはマムルーク朝にアッコンが落とされすべての十字軍が排斥される(エルサレム王国の崩壊)。後年オリエント交易が復活し、交易を争っていたヴェネチアとジェノヴァが当地で利権を争う戦いをし、ヴェネチアが当地での独占的な権益を得る。
現在、遺跡として残っているのが、アッコの城壁である。
これはAhmed El-Jazarがナポレオンの攻撃に対して町全体を分厚い城壁で囲んだものである。さしものナポレオンも攻め落とすことができなかった。
近年この砦の下を調査したところ、十字軍の砦が見つかった。現在は埋もれていた十字軍の要塞を掘りだして、元の姿にされて、見学できる。
十字軍の歴史を簡単に振り返って見よう。
十字軍は1096年から1270年にわたって、合計8回の遠征があったとされる。(算定方法には異論もある)
1)第一回十字軍(1096年~1099年):東ローマ帝国がセルジュク・トリコに圧迫され、ローマ教皇に傭兵の依頼をしたことが始まりである。教皇はクレルモン教会会議でエルサレム奪還を唱え、十字軍が編成された。1099年にはエルサレムを奪還し、中東のシリアからパレスチナにかけて、エルサレム王国のような十字軍国家が成立した。
2)第二回十字軍(1147年~1148年):しばらく、イスラム国家と十字軍国家が併存していたが、イスラム国家が勢いを盛り返し、エデッサ伯国を占領したため、再び教皇の提唱でフランス王ルイ7世と神聖ローマ皇帝コンラート3世の2人を指導者に、十字軍が編成される。なんとかパレスチナにたどり着くもダマスカス攻略に失敗し引き上げる。
3)第三回十字軍(1189年~1192年):1187年に「イスラムの英雄」サラディンにより、90年ぶりにエルサレムが占領される。これを受けて、教皇が十字軍の編成を提唱、イングランドの獅子心王リチャード1世、フランス王フィリップ2世、神聖ローマ皇帝フリードリヒ1世が参加した。フリードリヒ1世は1190年にキリキアで川を渡るとき落馬し、鎧のために溺死した。あとを継いだイングランドとフランスの十字軍が1191年にアッコンを奪還した。その後フィリップ2世は帰国し、リチャード1世がサラディンと休戦協定を結び聖地エルサレムの奪還は失敗に終わった(ただし、アッコンを確保したことでエルサレム巡礼の自由は保障された)。
4)第四回十字軍(1202年~1204年):ローマ教皇の呼びかけにより実施、エルサレムではなくイスラムの本拠地エジプト攻略を目ざす。しかし渡航費にも事欠くありさまで、十字軍の輸送を請け負ったヴェネツィアの意向でハンガリーのザラを攻略する、同じキリスト教(カトリック)国を攻撃したことで教皇から破門される。さらにはこれまたヴェネチアの意向で東ローマ帝国の首都コンスタンティノポリスを征服、フランドル伯ボードゥアンが皇帝になりラテン帝国を建国。やむなく教皇は追認し、さらにエルサレムを目指し遠征するよう要請するが実施されなかった。東ローマ帝国はいったん断絶し、東ローマの皇族たちは旧東ローマ領の各地に亡命政権を樹立した。
5)第五回十字軍(1218年~1221年):アッコン王国(エルサレム王国の後身)のジャン・ド・ブリエンヌらがイスラムの本拠であるエジプトを攻略するも失敗。
6)第六回十字軍(1228年~1229年):ローマ教皇は、十字軍実施を条件に戴冠した神聖ローマ帝国の皇帝フリードリヒ2世に対して度々遠征を催促していたが、実施されないためフリードリヒを破門した。1228年になって、破門されたままフリードリヒは遠征。フリードリヒの巧みな外交術もあって、戦闘を交えることなくエジプト・アイユーブ朝のスルタンアル・カーミルと平和条約を締結。フリードリヒはエルサレムの統治権を手に入れる。教皇はフリードリッヒの平和裏の交渉に満足せず、軍隊を派遣したが、逆に破れて、1230年にフリードリヒの破門を解く。
7)第七回十字軍(1248年~1249年):1244年にエルサレムがイスラム側に攻撃されて陥落する。1248年にフランスのルイ9世(聖王ルイ)が遠征するが、アイユーブ朝のサーリフ(サラディン2世)に敗北して捕虜になり、莫大な賠償金を払って釈放される。
8)第八回十字軍(1270年):フランスのルイ9世が再度出兵。アフリカのチェニスを目指すが、途上で死去。
ヨーロッパ側がエルサレムを確保した期間は1099年-1187年及び1229年-1244年ということになる(以後、20世紀までイスラムの支配下に置かれる)。また、1291年アッコンが陥落し、すべての十字軍国家が滅亡する。
十字軍に参加した諸侯は、宗教的な動機と共に、戦勝時の利益への目算も当然あったであろうと考えられている。宗教的な情熱が強かったはずの第1回十字軍ですら、エデッサ伯国やアンティオキア公国などの領土の確立に走る者が出ており、第4回十字軍に至っては、同じカトリックの国であるハンガリーまで攻撃し、さらには同胞のキリスト教(正教)国家東ローマ帝国の首都コンスタンティノポリス(現在のイスタンブル)を攻め落としてラテン帝国を築くなど、動機の不純さを露呈している。
もともとはエルサレムの回復を目的としていた十字軍であるが、後には、キリスト教徒から見た異教徒やローマ教皇庁から異端とされた教会や地方の討伐軍をも十字軍と呼ばれるようになった。このような例としてはアルビジョア十字軍などが知られており、ヨーロッパにおいても非難されることになる。
Nazareth(ナザレ)
Basilica of the Annunciation教会に行く。ここは、マリアが「受胎告知」を受けた場所でマリアの住居跡とローマカトリックはしている。教会の地下には、マリアが住んだとされる、洞窟が見られる。一方ギリシャ正教では「受胎告知」はナザレ村の共同井戸ではないかとされその上に聖ガブリエル教会がたてられている。近年受胎告教会が建てられたそうだが、これに伴い、各国から壁画が送られている。日本からも戦国時代の衣装をつけた、マリアとキリストの壁画が送られている。プレートにはLuca Hasegawa (長谷川路可)の名前が見られる。
隣には、ヨゼフを祭ったSt.Joseph's Churchがある。ここの地下にも、ヨゼフの店と言われる場所が発掘されている。地下部分だが、体を清める場所がみることができる。
マリアとヨゼフはここナザレで許嫁となったが、マリアが「受胎告知」を受ける。ヨゼフは婚約解消を考えたが、天使のお告げで結婚することになる。なお、マリアの懐妊相手はローマ兵士のパンテラと言う異説が古くからある。
その後、支配者ローマが国税調査を行う為、すべての人は本籍地に戻るよう指示があり、マリアは身重な体で本籍地ベツレヘムにゆく。そこで、イエスを出産(紀元前5年または6年)するが、救世主が生まれるとの噂のため、ユダヤ王ヘロデスが2歳以下の幼児を皆殺しする指示を出す。それを知った家族はエジプトに一時逃れる。西暦紀元前4年ヘロデス王が死去するに伴って、家族はナザレ(ナザラト)に戻り、イエスはここナザレで成長する。したがって、イエスは「ナザレの人」と呼ばれる。
ここでキリストが生まれ育ったと思うと、クリスチャンでない私もなんだか感激する。
キリストはここで30歳まで過ごし、自分の主張のため、いたたまれず、北東のガレリア湖畔カペナウム(昨日訪れた)に行き33歳までここで、重要なメッセージを出しているようだ。