<クラック・ド・シェブリエ>
<ダマスカス近郊>
<ダマスカス・シイタドル>
<サラディンの墓>
<Omayad Mosque>
<直線通り>
<Maryamia church >
<Eastern Gate (Straight Streetの東の出口)>
09.06.06 ダマスカスへ
8時にバスに乗り、ダマスカスに向かう。
途中Crac de Chevaliers(クラック・デ・シュバリエ城)による。
Crac de Chavaliers
十字軍時代の代表的な城で、当時の築城技術の粋を究めたものと評価されている。十字軍時代は聖ヨハネ騎士団の本拠であり、名前は「騎士の砦」を意味する
海抜 750m にある城である。もともと誰がここに砦を築いたか不明だが、紀元前数世紀ころには砦(The Kurds Citadel)が作られていたようだ。1099-1110に十字軍がここを占領した。その後1142年にトリポリ王が十字軍のナイトにこの城を与えたようだ。その後聖ヨハネ騎士団は大規模な拡張をしていく。1172年にはアラブのスルタンのBebarsが巧みな戦術でこの城を落とした。
後年、アラビアのロレンスが此処を訪れ、世界で最も美しい城と伝えている。
聖ヨハネ騎士団は1048年アマルフィーの商人マウロがエルサレムに巡礼に来る人々のため、聖ヨハネ修道院跡に病院を兼ねた巡礼宿泊所を作ったことが始まりである。その後、軍事的要素が強まっていき、フランス人ジェラール・ド・プロヴァンスの努力により1113年に教皇パスカリス二世により騎士修道会と認定される。十字軍国家の重要な防衛軍事力で、彼らだけで二つの大要塞(Crac de Chavaliersがそのひとつ)と140もの砦を守備していた。1187年エルサレムがイスラム教徒に落ちた後も、トリポリやアッコンを死守していたが、1291年アッコンが陥落するとともに、キプロスへ移動する。しばらく、キプロスを拠点にイスラム船相手の海戦(海賊行為)を続けるが、キプロス王が危機感を募らせ、1309年ロードスに移動する。以降「ロードス騎士団」と言われる。騎士団は母国語により8つのグループに分かれており、約500名の騎士で構成されていた。各グループごとに騎士館長がおり、全体を騎士団総長が仕切っていた。1522年オスマントルコの圧倒的な軍事力の前にロードスは陥落し、一時シチリアに避難するが、その後はマルタを借り受け此処を本拠地とする。以降「マルタ騎士団」と呼ばれるようになり、イスラム船やヴェネチアのユダヤ人相手に海賊行為を行い、マルタは彼らの奴隷売買の中心地となった。徐々に存在意義が薄くなり、1798年ナポレオンにマルタを征服されると、ロシアに本拠地を移し活動するが、最後は、1834年本拠地をローマに移す。現在正式名は「ロードスおよびマルタにおけるエルサレムの聖ヨハネ病院独立騎士修道会」としていまだに活動している。騎士団数は1万2500人を数える。
ここから、二時間程度かけて、ダマスカスに向かう。
町に地下ずくと、西の丘に小さな家が中腹までベタット張り付いている姿は異様である。
城壁に囲まれた、OLD Damascusの名所を観光する。
アラブ世界最大級の都市ダマスカスは、紀元前10世紀から300年近くも中近東の中心だったといわれる現存する最古の都市の一つです.
見学したのは:
Damascus Citadel(外観のみ)
Saladin tomb
ダマスカス・シタドルを少し入ったところにサラディンの墓がある。入場に際し、肌を見せないようきつく言い渡される。したがって、ノースリーブの女性などは雨合羽用の衣服を与えられ入場する。中に緑のカバーがされた廟がありこれがサラディンの墓だそうだ。此処にはかつて、金の花輪があったそうだが、かのT.E.ロレンスがイギリスに持って帰ったそうだ。
Omayad Mosque (何回か地震や火災、戦災のため痛んだが、修復されて見事)
ローマ時代はジュピター神殿であったが、その後洗礼者パウロの教会となり、イスラム時代に入るとウマイヤ・モスクと立て替えられた。イスラム教四代聖地のひとつである。
ウマイヤ朝第6代カリフが総力を挙げて建設したモスクで、現存するもっとも古いモスクだそうだ。
中庭は大理石で埋め尽くされ、顔が映るほどきれいである。モスクの中には大勢の信者がお参りしている。洗礼者ヨハネがサロメの依頼でヘロデ王に首を落とされ、その首がここで見つかったという。したがって、イスラム寺院といえども、中に洗礼者ヨハネの首を収めら礼拝所がある。
7世紀ムハンマドに始まったイスラム教は、彼の死後、四代にわたる正統カリフ時代、636年、ダマスカスは第2代正統カリフ・ウマル・イブン=ハッターブ(ウマル一世)に征服される。その直後、アンダルス(現在のスペイン)からインドまで広がるウマイヤ朝(661年-750年)の首都となったときに、この都市の力と威光は頂点に達した。705年にキリスト教会をモスクに改造したウマイヤド・モスクは今でもダマスカスに残っている。744年、最後のウマイヤ朝カリフ、マルワーン2世は首都をジャズィーラ(メソポタミア北部)にあるハッラーンに移し、以後ダマスカスはこれほどの政治的重要性を取り戻すことは無い。
ウマイヤ朝(ウマイヤ朝、661年 - 750年、)は、イスラム史上最初の世襲イスラム王朝。サラセン帝国、またはカリフ帝国やアラブ帝国と呼ばれる体制の王朝のひとつであり、イスラム帝国のひとつでもある。イスラームの預言者ムハンマドと父祖を同じくするクライシュ族の名門で、メッカの指導層であったウマイヤ家による世襲王朝である。ムハンマド存命中はメッカで彼に対抗していたアズード・スフヤーンが最後は彼に帰順し頭角を現す。ムハンマド死後第4代正統カリフであるアリーとの抗争において最終的に政権を獲得した息子のムアーウィヤ(当時シリア総督)が、661年に自らカリフとなることにより成立した政権。都はシリアのダマスカス。ムアーウィヤの死後、カリフ位がウマイヤ家の一族によって世襲されたため、ムアーウィヤ(1世)からマルワーン2世までの14人のカリフのことを「ウマイヤ朝」と呼ぶ。750年にアッバース朝によって滅ぼされるが、王族のひとりアブド・アッラフマーン1世がイベリア半島に逃れ、後ウマイヤ朝を建てる。
ウマイヤ朝の東西の進行がイスラム教の浸透に大きく寄与していると思われる。
Straight Streat 『直線通り』
この道「直線通り」は紀元前からにぎわっており、聖パウロの回心と非常に関係が深い道である。
サウロが旅をしてダマスコに近づいたとき、突然、天からの光が彼の周りを照らした。イエスが現れサウロにダマスカスに行けと命ずるとともに、目を見えなくしてしまった。人々は彼の手を引いてダマスコに連れて行った。サウロは三日間、目が見えず、食べも飲みもしなかった。
一方で。イエスは、ダマスコにいるアナニアという弟子の前に現れ、『直線通り』と呼ばれる通りへ行き、ユダの家にいるサウロという名の、タルソス出身の者を訪ねよと命じる。アナニアは出かけて行ってユダの家に入り、サウロの頭の上に手を置くと、たちまち目からうろこのようなものが落ち、サウロは元どおり見えるようになった。そこで、身を起こして洗礼を受け、食事をして元気を取り戻した。紀元34年あたりのことである。すなわちパウロの回心に大いに関係のある道である。この道は今日ではバーブ・シャルキー通りとアーケードのある市場、スーク・ミドハト・パシャとなっている。。バーブ・シャルキー通りのはずれの路地を一寸入ったところに「聖アナニヤ教会」があり、もとはアナニヤの住居であったとされる。地下が教会になっている。
St.Hanania’s Church
Maryamia church (ギリシャ正教会で、聖パウロにまつわる話が伝わる)
Eastern Gate (Straight Streetの東の出口)
Hamidiyah Bazzar
Ebla Cham Hotelにチェックイン後、また、東門近くのレストランでディナーを取る。食事中に、トルコではセマーと呼ばれる止まることなく回転し続けるダンスと有名なベリーダンスを鑑賞する。エジプト、トルコとベリー・ダンスを見てきたが、ここが今のところ一番よさそうだ。